永遠の生命を求めて

永遠の生命を求めて
一、永遠の生命を求めて
すると、ひとりの人がイエスに近寄ってきて言った、「先生、永遠の生命を得るためには、どんなよいことをしたらいいでしょうか」(マタイ一九・一六)
人類は太古から皆、死を恐れて永遠の生命を求めて来ました。今から殆ど五千年前に造られた巨大なエジプトのピラミッドも、王達が永遠に住むための家として建てたものです。ユダヤ人もここに記した聖句のように永遠の生命を求めてやみませんでした(ヨハネ五・三九も参照)。 仏教徒もまた永遠の生命を求めたのです。日本人なら誰でも知っている念仏、
「南無阿弥陀仏」
の意味を調べれば、その事実がよく分かります。南無は帰依すること、即ち信じることです。阿弥陀仏はその元の字はサンスクリット語(古代インド語)で Amitãyus(アミターュス)です。このアミターュスは、二つの語からできています。一つはアミターです。この意味は無限とか永遠とかを現わします。そして仏教ではこれを無量と言っていをす。次のユスは寿命とかいのちの意味です。ここから仏教の無量寿なる言葉が生まれました。この無量寿は永遠の生命という意味です。従って南無阿弥陀仏を今日の私達の言葉に直しますと、
「私は永遠の生命を信じます」
ということになります。このように念仏宗徒は朝に夕に、「私は永遠の生命を信じます」と唱え続けて来をした。ついでに日蓮宗のお題目である、
「南無妙法蓮華経」
について申します。これもその根本は南無阿弥陀仏と変わりません。この意味は「正しい教えの白蓮華を信じます」です。そして日蓮の信じた法華経の中心は、
一、すべての人を平等に仏陀にならせる教え
二、すべての人に永遠の生命を与える教え
の二つであると言われています。即ち南無妙法蓮華経を唱える信徒の祈願は、
すべての者が仏になれますように、そしてすべての者が永遠の生命に与れますように、
なのです。故に南無阿弥陀仏にせよ、南無妙法蓮華経にせよ、これを唱える者の心情に変わりはありません。最初に引用した聖句の言葉は、一人のユダヤ人の青年がキリストに永遠の生命はどうしたら得ることができるかと尋ねた時のものです。キリストは青年にモーセの教えをしっかり守るようにと告げました。すると青年はそれらは全部守っています、ほかに何が足りないのでしょうか、と答えたのです。キリストは完全になりたいと思うなら、自分の持ち物を全部売り払って、それを貧しい人に施し、その後で私(キリスト)に従うように告げました。しかし青年はとてもそんなことはできませんでした。ここにある完全になるという語は、仏教では仏と言います。即ちブッダとは完全な人格者、真理を悟った人という意味です。しかし、この世に一人として完全な人などいません。神以外に完全な者はありません。故にこの完全を求めた時、人には絶望あるのみです。日本仏教においてこの一事を悟った第一人者は僧法然でした。彼はあらゆる努力 ― 仏教典の研究、儀式や戒律の実践、座禅 ― も人間を悪から解脱させてくれないことを知ったのです。彼はそれらによっては心に平安を得ることができませんでした。そして彼は遂に他力を頼む浄土教を信じ、ひたすら他力信仰による、
「南無阿弥陀仏」(永遠の生命を信じます)
の念仏を唱える者となりました。それは驚くべき深い信仰でした。しかし、この信仰はその対象が神ではなく仏となった人間でした。このことは終極において人間を救い得る信仰ではありをせん。私達と同じような罪深い人間をいくら信じても救いは来ません。

二、神の愛を知ること
私達はどれ程信仰に燃え、熱心になって念仏を唱えても、それによっては救われません。念仏は所詮私達を救い得ません。なぜならその念仏の対象が人間であるからです。仏教で言う諸行、つまリこの世のあらゆる被造物の一つである人間を信じても、そこには人を救う力はありません。たとえ真理を悟った仏陀であろうとも、人を救うことはでききせん。人間を造り給うた、しかり諸行の創造主なる天地宇宙の神御一人のみが人間を救う力を持っておられます。
子を持つ親にとって一番の願いは、子供が健康で立派に成長してくれることです。ですから、つい最近、事件を起こした元警察官の親などはどんなに心を痛めていることでしょう。子が人の道をはずれて、狂ったことをすれば、その親もまた気が狂う程苦しみます。この世の親にしてしかりです。それならば、人間を創造された天の神は私達人間一人一人をどんなにか愛しておられるに違いありません。法然が苦しんだように、経典の研究、儀式、戒律の実践、座禅など何一つとして人間を悪から解脱させる力のないことを悟った者に、私達の父なる神は遂にキリストを与えて下さいました。即ちこのような悪と罪とにまみれた救いようのない者達に対して、神は.御子キリストを下し給い、キリストが十字架上で犠牲の死を遂げられたことによって、法然さえも解決し得なかった罪からの完全解脱の道を与えて下さったのです。もし法然がこの真理を見出したならば、彼はきっと涙を流して、この福音を信じて受け入れたことであろうと私は思いをす。この愛なる神を知ること、そして神の御子キリストの十字架の意義を知ること、人間にとりこれ以上大切なものはありません。そしてこの神とキリストによってのみ、
アミターュス=阿弥陀仏=無量寿命=永遠の生命
を人は神から賜わるのです。

三、神とキリストとにすべてを捧げよ
最初に学んだように、一人の青年がキリストの下に来て、
「先生、永遠の生命を得るためには、どんなよいことをしたらよいでしょうか」。と尋ねました。そしてキリストから彼の全財産を売り払って、貧しい者に施した後キリストに従うように言われた時、青年はそれを拒んで、悲しそうにキリストの下を立ち去ってしまったのです。それは彼がキリスト御自身が真の、
道であり、真理であり、永遠の命である(ヨハネ一四・六参照)
ことを知らず、また信じ得なかったからです。しかしこの青年が、もし取税人ザアカイのようにあるいはマグダラのマリヤのようにキリストが生ける神の子、永遠の生命そのお方御自身に在し給うことを信じ得たならば、この青年は、キリストの「わたしに従って来なさい」と言う言葉に言下に従ったことでしょう。真の永遠の生命をキリストのうちに見出した者は、この世のあらゆる宝物、黄金、財産等数うるに足らなくなります。故に私達はキリストに従う時、悲壮な覚悟と決心とをもって従うのではありません。否、私達は私達にこの大いなる恵み、永遠の生命を与えて下さった方に私達の全財産を喜んで捧げたくなるのです。しかり、私達は私達の持ち物以上のものを神に捧げずにはいられなくなります。それは、私達の最も大切なもの ― 心、霊魂を捧げずにはいられなくなります。
人類が長い間求めて来た、
アミターュス=阿弥陀仏=無量寿命=永遠の生命
を私達は遂にキリストによって与えられたのです。こうして私達は悲壮な心を以って、
南無阿弥陀仏や南無妙法連華経
等々のお題目を唱える必要はもうなくなったのです。私達にとって今必要なことは、私達に遂に永遠の生命 ― 阿弥陀仏=無量寿命を与えて下さったキリストを心を尽くし、力を尽くし、精神を尽くして愛し、信じまつることです。故に私達全人類の今後の祈願は次の一節に要約することができます。
「南無キリスト」=「私はキリストを信じをす」
ア ー メ ン。
以上は、 聖書の友一九八四年十月号より

阿弥陀仏 ― 永遠の生命

 

阿弥陀仏 ― 永遠の生命

阿弥陀仏とはサンスクリット語のアミターュスの音を仮借したものである。その意味は無量寿命、即ち永遠の生命である。南無もサンスクリット語では帰依すると言う意味で、浄土宗徒が唱える念仏「南無阿弥陀仏」とは、「私は〈永遠の生命〉を信じます」との意である。
ヨハネによる福音書を見るとユダヤ人達は永遠の生命を求めて熱心に旧約聖書を読んでいたことが分かる(五・三九)
古代のエジプトの王達が競って大ピラミッドを建てたのも、彼らが永遠の生命を信じ、永遠の住居を求めたためであると言われている。このように人類は今日まで皆永遠の生命を求めてやまないのである。
では一体誰が私達に不老不死なる永遠の生命を与え得るであろうか。仏陀となりし釈迦は確かに聖人であった。しかし彼は死んで葬られたままである。旧約聖書も私達に永遠の生命を与え得ない。その他ありとあらゆる念仏やお題目も永遠の生命を保証し得ないのである。しかし、唯一つ聖書は明言する。

イエスは彼女に言われた、「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない」(ヨハネ一一・二五、二六)。
なぜなら、このように言われるキリストは、
真実な神であり、永遠のいのち(ヨハネⅠ五・二○)。
そのものの方でいまし給うからである。私達の宗教も念仏もお題目も一つとして私達に永遠の生命を与え得ない。故に私達が真の不老不死を願うならば、キリストに行くほかはないのである。何故なら、キリストは私達すべての者の罪を負うて下さって十字架に死んで下さり、復活されて人間が最も恐れる死を永遠に滅ぼしてしまわれたからである。私はこの主なるキリストを心から信じる。そして永遠の生命の喜びに与る。

コロナ4年間独り閉じこもった後に

3か月前ブログを再会したのですが、体調不良のためほとんど何もできませんでした。ただ一つだけ、休みつつ4年余り続けました、恩師山本泰次郎先生の「国民の聖書」の編集です。そして去る7月終わりました。終わった途端、左顔半分が腫れあがって左眼のまぶたもふさがってしまったのです。目下口腔外科に通って診てもらっています。少しずつ回復していますが、まだ辛いです。でも何かできると思い、この頃若い人たちの結婚観を想いつつ、70年前の私の時の事を記してみようと思いました。

結婚について思うこと
近来人口減少が心配されています。その原因の一つは若者たちが結婚しないからであると。婚活とかマッチングサイトとか色々あるが思うようにはいかないのでしょう。
女性にとって結婚相手の望ましい条件は私のころ(70年前)3高(高収入、高学歴、高身長)などと言われていました。更に(家付き、ババ抜き)などです。現在ではどうなのでしょう。
旧約聖書の箴言というところに、次のような言葉があります。
A man’s greatest treasure is his wife─
she is a gift from the Lord.(Prov.18:22,C.E.V.)
男の 最高の宝物は 彼の妻である。
彼女は 主なる神からの ギフト(贈りもの)である。
(箴言18:22)
私は当時結核を患っていました。2年間結核療養所にいました。即ち私には3高などひとつもありませんでした。ただ一つあったものと言えば結核になる前に私のすべてを主キリストに捧げてしまっていました。その様な私を愛して彼女も全てを主キリストに捧げて私のパートナーとなってくれたのでした。そして60年間共に心一つにして主キリストの福音のために生きてくれたのです。しかし、神は、その愛する者を10年前に主の御国へと召してしまわれたのです。私は後4年半で100歳、心は既に愛する者との再会を望む日々です。でもすべては主の御心のままにです。許される間まだまだ主キリストの十字架の福音を一人でも多くの方々に伝えたいと熱望しています。

 

 

 

 

 

 

 

4ヶ月ぶりです!

前回投稿してから4ヶ月も経ってしまいました。コロナになる前から編集を始めた国民の聖書、山本泰次郎先生の「ヨハネによる福音書」続けることに専念するためでした。コロナ中は事務所に引きこもって誰にも会わずにすむので土・日にも休むことことなく続けられたなです。頑張っても、一日に1ページ、2ページはきついのです。そしてついに編集が終わりました。主がいつも守っていて下さり、加えて愛する友たちのお祈りがあったからです。                本書は特別なものです。私は本書を読んで聖書の本質、主キリストの十字架を教えられました。私は生まれ変わりました。この喜びがあまりにも大きいので私独りで心に留めておくことが出来なくなってしまったのです。それでその編集をはじめたのです。この数年ほとんど人に会わず休むことなく続けられました。そして今やっと終わり印刷所PDFを送りました。

 

ブログの再開

前回から4年近くブログを更新しませんでした。色々なことがあまりにもたくさんあったからです。加えて私の健康と年齢にもよります。3月になると95歳の大台になります。この年まで生きること許されると、人体がどのように変化していくのかが分かります。幸い私は主によって日々力を頂き、ヘルパーさんに世話になることもなく、いわゆる健康長寿です。過ぎし数年病院に行くか、特別の用事ができない限り、土、日も休まず「国民の聖書」作りの編集に全力を傾けてきました。今やっとその最終段階までくることができました。「国民の聖書」は恩師山本泰次郎先生が私たち日本人のために残してくださったものです。これは「聖書とはどのような本で、何を伝えようといるのか」を示してくれます。完成しましたら、ブログでお知らせします。

ブログで聖書の友社へのあくせつをひらくと、住所が古いままになっています。すでに閉じているですが、これは友人が20年まえに私のために作って下さったもので私にはどうすることもできないのです。相模が丘の事務所はもう存在しません。メールなどはp.f.d.fukuda@snow.ocn.ne,jpか194-0012 町田市金森1-25-2-208 電話は042-726-1340か042-705-2510 Fax 042-705-2511へお願いします。

 

 

 

 

現在の世界を思う!

ある人たちが、神殿が見事な石と奉納物で飾られていることを話していると、イエスは言われた。6「あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る。」7そこで、彼らはイエスに尋ねた。「先生、では、そのことはいつ起こるのですか。また、そのことが起こるときには、どんな徴があるのですか。」8イエスは言われた。「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』とか、『時が近づいた』とか言うが、ついて行ってはならない。9戦争とか暴動のことを聞いても、おびえてはならない。こういうことがまず起こるに決まっているが、世の終わりはすぐには来ないからである。」10 それから彼らに言われた、「民は民に、国は国に敵対して立ち上がるであろう。11 また大地震があり、あちこちに疫病やききんが起り、いろいろ恐ろしいことや天からの物すごい前兆があるであろう。(ルカによる福音書21:5∼11)

上記の記事はキリストが十字架に架かられる数日前、弟子たちと交わした言葉です。キリストが十字架に架かられた後葬られ、復活して昇天された後、やがて地上に再臨される時に、その前兆として起る出来事なのです。すなわち「民は民に、国は国に敵対して立ち上がる」とあるように、現在の世界情勢そのものです。「そして、大きな地震があり」とあるように、現在は地震があちこちで頻発しています。また「方々に飢饉や疫病が起こり」とあるように、ロシアが起こした戦争は世界に大混乱を引き起こして、何億という人達が飢餓に苦しんでいます。そして「疫病が起こり」とありますが、コロナはどうでしょう。加えて「サル痘」と言われるものまで、でてきました。
 一体これから世界はどうなるのか、戦争の中止を願い求めつつ、どうしてよいかわかりません。
 私たちが現世中心、自分中心になって神を求めず、キリストのおられない世界が生み出した現在の世界です。キリストがおられない世界は混沌の世界です。

これほど面白い、読みやすい本は無い!

聖書は一名これをイエス・キリストの伝記と言うてもよいと思います。その旧約聖書なるものは、キリストがこの世に生まれ来るまでの準備をのべたものであって、新約聖書は、キリストのこの世における行動や、あるいは直接にキリストに接した人の言行等を伝えたものであります。もし聖書の中からキリストという人物を取り除いて見るならば、ちょうど弓型の石橋より枢石(かなめいし)を引き抜いたようなものでございまして、その全体が意味も形像(かたち)もないものとなるだろうと思います。聖書の解し難いのは、文字のゆえではなく、また理論のこみ入っているわけでもなくて、じつにキリストがその枢石である事がわからないからでございます。それゆえに、ひとたびキリストと彼の真意とがわかりさえすれば、聖書ほど面白い書は世の中にまたとなく、またこれほど読みやすい書はないようになります。「内村鑑三 宗教座談より」

お知ら!グッドニュース!

お知らせ!主に在る兄弟姉妹たちへ! グッドニュースです!
「国民の聖書」マタイによる福音書 上・中・下巻をデンシブックにしました。また、それをペーパーブック(印刷本)でも提供できます。著者は生涯を「聖書を国民の書」に「国民を聖書の民」にとの篤い祈りと希望を抱いて、全生涯を捧げた山本泰次郎先生です。このような書を93歳になった私が心を込めて電子化に専念するのです。「キンドル山本泰次郎先生」でインターネットにアクセツできます。 福田秀雄

神が私に与えてくださった人(パートナー)

神は私が探し求める前に、既に私が伝道者として働くために最善の助け手(パートナー)を選び用意しておいてくださいました。即ち妻です。私が彼女と婚約を交わした後で、彼女は日記に次のように記してありました。

生涯の伴侶は自ら求める者ではなく、主より与えられる者である。この意味で私は福田兄を与えられた事は心から感謝せずにはおられない。

 私は神によって選ばれた伝道者の妻とされるべく定められたのであるゆえに、神が生涯導き給うことを信じて疑わない。私はまず聖書をもっと良く理解できるようにとか、もっと人を愛せるようにとか、もっと教義に忠実になれるようにとは祈らない。第一に祈りもとむべきことは私が全く主の者とされん事である。私が全く主に捉えられ、主の意志によって全たき支配のうちに入れられん事である。自分を捧げ切ることが できずに何故伝道者の妻となることができようか。何故人に福音が伝えられ得よう。主よ、願わくば与えられた祈りの数年の間を全き服従を学ぶ時となさせ給え。(彼女の22歳の時の日記より。彼女が81歳で天に召される直前、彼女が私に手渡してくれた5冊の日記帳より)

彼女の信仰は、この記録を残してから、召される日まで、約60年変わることがなかった。本当に全生涯を主キリストに捧げ、そして私を助けてくれたのである!

 

現世から来世の希望へ

人をして非俗的ならしめ、無欲ならしめ、非現実的ならしむるものにして、鮮明にして確実なる来世の希望のごときはないのである。この希望を欠いて、この罪の世にありて信者の生涯を送ることはできない、この世の不義はあまりに多くある。暗黒の勢力はあまりに強くある。この世のみに意を留めて、不信は当然の結果といわざるをえない。されども目をあげて上を仰がんか、聖書に示されたる神の約束を信ぜんか、完成さるべき造化と拯救(たすけとすくい)とを望まんか、ここに懐疑の雲霧は晴れて、正義敢行の勇気は勃然(ぼつぜん)としてわきでるのである。キリスト再臨の希望は信者の歌の源である、愛の動機である、善行の奨励である。これありて、われらはこの涙の谷にありて、歌いつつわが父の家へと進み行くことができるのである。(内村鑑三「研究第二の十年)
内村先生が百年以上も前に言われたことが、現在の世界の姿、情況そのものを示しています。人の心は現世をいかにいきるかが第一で、来世など二の次、三の次である。