キリストのゆえに われ神を知る

1. ああわがための十字架 いかにしたわしきかな
み子イエスを知りて われ神を知る
2. ああわがための十字架 み子の苦しみをしのび
なぐさめ身にうけて  われ神を知る
3. ああわがための十字架 かぎりなき愛の主よ
み子イエスを知りて われ神を知る
アーメン(1953年8月17日)

私は毎週日曜日と水曜日横須賀まで東京・中野から通っていました。宣教師B師の伝道活動を手伝っていました。100坪ほどの土地を購入し、そこに教会堂を献堂することができました。65年前のことです。その直後特別集会を開いて、先輩牧師先生を招きました。私はその時話された、キリストの十字架の愛に感動しました。夜私は独り横須賀線に乗って中野へ帰りました。当時はまだ車内も薄暗い、座席も板張りの硬いものでした。乗客も少なく、独り座って特別集会で受けた十字架の主キリスト愛を心に深く想ったときに、自然に上記の詞が生まれたのです。それを一枚のメモ用紙に記しておきました。そしてこの歌詞にその37年後ハワイ在住の婦人によってメロデーがつけられたのでした。

人生の目的(年の初めに)

イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」ヨハ14:6,7
人生の目的は神を知るにある。その外にない。金をためるのではない。人にほめられるのではない。哲学と美術とを楽しむのではない。神を知るにある。これが人生の唯一の目的である。この目的を達せずして、人生は全く無意味である。ほんとうの夢である。この目的を幾分なりと達せずして、最も成功せる生涯も失敗である。われらは年の初めにあたって再びこの事を深く心に留めるべきである。(内村鑑三信仰著作全集20. 256頁)

2019年を迎えて

だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。(Ⅱコリント5:17)
私たちにとっては、新年必ずしも新ではない。旧年必ずしも旧ではない。「霊」これ新である。「肉」これ旧である。キリストこれ新である。この世これ旧である。キリストは、昨日も、今日も永久に新である。この世は過去も現在も永遠に旧である。肉を捨てて霊に行き、この世を去ってキリストに至るよりほかに、旧より新に移る道はない。(続一日一生・内村鑑三 1月3日より)

私は正月3日の初めに、この奨励を頂いて、主キリストによって生かされている身を知って、感謝の祈りをささげました。

友よ! あなたがこの一事を知るならば!!

自分を憎み十字架につけた人々にさえ、神の赦しを祈られたキリストの愛!あなたがこのお方を知るならば……、あなたは変わることができ・・・・・・・・。私はただただこの一事伝えたくて、19歳で主に召されてから今日まで70年、一日も忘れることなく生きてきました。 2018年12月2日 主の復活を記念する日に。
〔そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカによる福音書23章34節)

日本はアジアの試験場

日本はアジアの試験場なり。あたかもギリシアがヨーロッパの試験場なりしがごとし。
ヨーロッパの未来がギリシアによりて決せられしがごとく、アジアの未来は日本によりて決せらるるなり。日本人の採用する制度と、その開発する宗教と哲学と芸術とが、ついに東アジア全体に普及し、永くその模範となりて、人類半数以上の運命を支配するに至るは、ソロン、フィジアス、プラトー(立法家、彫刻家、哲学者)らの事業が西洋文明の基礎を定めしがごとくなるべし。よって知る、吾人(わたしたち)日本人の責任は、わずかに同胞4千万人の安全幸福にのみとどまらずして、ヒマラヤ山以東に住する蒼生(人々)5億余(現在30億人以上)の将来に関するものである。この重大の責任あるを知る者にして、いかでか軽佻浮薄なるをえんや(うわちょうしで、あさはかなこと)
内村鑑三著、「一日一生」11月29日より

主に在る友に助けられて、やっと「ホームページ」を続けられるようになりました。これからはできるだけ、日毎に主の御言葉の恵みを一人でも多くの方々と分かち合いたく思います。あと4ヶ月で90歳になる私ですから、何事も思うようにできなくなりましたので不都合、その他の誤りなどお許しください。主に在る方々の助けを頂けるならば有り難く思います。