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心のレストラン

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天国のキリスト教

聖書(新約)はマタイから黙示録まで、即ち初めに天国で始まり、最後は天国で終わっています。

この時からイエスは教を宣べはじめて言われた、「悔い改めよ、天国は近づいた」。(マタ4:17)

「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」。 (マル1:15)

イエスはお答えになった。「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」(ヨハ18:36)
また私は、新しい天と新しい地(即ち神の国)とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。(黙21:1)
このように聖書は天国について教える書です。しかし、現在のアメリカのキリスト教は徹頭徹尾現世的キリスト教です。大統領選挙を見ればわかります。今もアメリカには、真のキリスト信者はいます。しかし、アメリカのキリスト教は現世的キリスト教であって、聖書が説いているキリスト教ではありません。私たちはこんなキリスト教を受け入れてはなりませんし、信じてはなりません。キリストから直接に「天国のキリスト教を頂いて、日本から世界に発信する責任があります

111()主日
現在世界はコロナウイルスのこともあって、混乱しています。分裂、差別などなど。これらの壁を打ち砕いてくれる力は、下記の聖書の言葉です。
すべての土台 (エフェソの信徒への手紙 第2章14節〜22節)
14実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、15規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、16十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。17キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。18それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。19従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、20使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、21キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。22キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。

 もし私たち一人一人がここで語られているパウロの言葉を心に留め、それを実行するなら、人、家、社会、国家間の諸問題はその根本において解決します。残るはただ、実際的にどうすべきかとの手段を、心を尽くして知恵を出しあえばよいのです。
パウロはユダヤ人です。パウロの生涯を見る時、彼は最初、最も保守的なユダヤ教徒でした。そのパウロがなぜ百八十度転回してクリスチャンになってしまったのか、その秘密がこの所に隠されています。
今ここで学ぶ所に、人生問題解決のすべての土台となる奥義(本当の教え)が記されています。私たちは今これを学び、そして知り、その精神を神から与えられるならば、他の事は知らなくとも、さほど重大ではありません。もしこの真理を知り得ないならば、私たちがどれほど知識を増し、科学を進歩させても、人類は永久に神の祝福に与ることはできません。このような驚くべき教えは、ほかの宗教、道徳には決して見出だせません。私たちは今これを知り得ることをどんなに感謝してもしきれません。

【語句注解】
14節から22節はただ一つの事を言っています。しかし、この一つほど私たちにとって大切なものはありません。人はだれでも、この一つを得たなら、人生これ以上の成功はありません。これなしに一生を終わった人生は、すべて失敗だったとさえ言えます。この教えほど重要なものはありません。そしてつまるところ、聖書全体の教えは、ここに集約されていると言っても決して過言ではありません。
14節 ◎キリストはわたしたちの平和であります。
キリストはどのようにして私たちの「平和」となられるのでしょうか。それは、
◎二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、
「二つのものを一つにし」は、今、真っぷたつに割れて争っているユダヤ人とパレスチナ人(選挙直前のアメリカなど)の敵意の壁は、キリストの十字架の犠牲によって、すっかり取り壊されてしまったということです。しかし、彼ら双方はキリストを受け入れないので、その厚い壁が残っている状態なのです。回心前のパウロのような保守的な人は今でも大勢います。これでは到底平和は来ません。
15節 ◎規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。
キリストは十字架によって、旧約聖書に記されている、「規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました」。もう律法はその使命を終えたのです。ユダヤ教徒、イスラム教徒、ありとあらゆる宗教信者にとって、これほど重大な言葉はありません。これは彼らには絶対に受け入れられない恐ろしい教えです。もし彼らがこれを受け入れ、信ずるなら、ユダヤ教、イスラム教は存在できません。その他のすべての宗教も同じです。それほどに鋭い言葉です。
私たちが十字架を見上げ、主を信じて生きる時、初めてすべての人に対する敵意は自然に失せ、私たちはキリストにあって一つとされてしまうのです。全人類の土台はキリストです。しかも十字架につけられたキリストです。私たちがすべての土台であるキリストに生きる目的を置けば、この世はその土台の上に建てられる「聖なる神殿(21節)」となります。ここにはもはや偶像礼拝は消え失せます。私たちの世界をますます複雑にして生きづらくしている状態は、大きく変化します。故に今、私たちはこの福音を全世界に声を大にして宣べ伝える責任があるのです。(福田秀雄 新約聖書注解全集8より)

神の愛

神は、わたしたちを怒りに定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによる救いにあずからせるように定められたのです。 主は、わたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです。ですから、あなたがたは、現にそうしているように、励まし合い、お互いの向上に心がけなさい。(第IIテサロニケ5:9−11 )(使徒パウロが彼の信仰の子テモテへの勧め)

神の時

人類の歴史には多くの「特別な出来事」があります。古くはノアの洪水、最近では2011年の東日本大地震と津波のような自然大災害、人災では数え切れなほどの戦争など。そして、今は全世界を襲い混乱に陥れたコロナウイルスなど。しかし、これらの中で何ものも比肩できないものがあります。その第1の大いなるものは、今より約2000年前の事です。それをあかす言葉は次の 【時は満ちた】です。即ち下記の聖句です。
「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」。マルコ1章15節
"The time is fulfilled, and the kingdom of God is at hand. Repent, and believe in the gospel." 【NKJV】
"The right time has come," he said, "and the Kingdom of God is near! Turn away from your sins and believe the Good News!" 【TEV】
マルコによる福音書によると、主キリストがの活動を開始された時の第一声は、
  【時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」】です。
この時は満ちたの「」という単語は特別な意味があるのです。ちょうどよい時最もふさわしい時一番良い時などを表す単語なのです。
 キリストがお生まれになった時、即ち今から約2000年前のエジプト、メソポタミア、ローマ、ギリシアなどを含む、地中海世界全域は歴史始まって以来初めて特別な時が生まれました。
1.長い混乱の時代が終わって、いわゆるパックス・ローマナ(ローマ式平和)が生まれました。それは本当に素晴らしいものでした。ことわざに「すべての道はローマに通じる」とあるように、平和のおかげで旅行が自由にできるようになったのです。
2.次の大切な事は、地中海世界全域が一つの言語、即ち共通語の時代でした。ローマ帝国が支配していたのにもかかわらず、ラテン語ではなくギリシア語がローマ帝国全域で共通語として普及いしていたのです。これについて詳しく述べると長くなるので止めますが、次の一事でも明らかです。
 新約聖書は、ユダヤ人であるペテロ、ヨハネ、パウロなどによって書かれました。彼らの母語はイスラエル語です。それなのに外国語であるギリシア語で書いています。ペテロやヨハネはガリラヤ湖の漁師でした。特別な人たちではありませんでした。また使徒パウロは現在のトルコ、マケドニア、ギリシアなどあらゆる所でギリシア語で福音を伝えることができたのです。
 このように主キリストが生まれられて、福音を伝え、十字架に架かられ、墓に葬られて三日目に復活されて、神の人類救済の計画が成就するのに最善の時は、アブラハムから今日まで約4000年の歴史でこの時ほどふさわしい時は他にはないのです。
 このようにして始まったキリスト教は約300年間ローマ帝国に容認されませんでしたが、紀元313年ミラノ勅令で公認され、更に392年に帝国の国教となりました。この時以後キリスト教会はますます発展します。そして立派な大伽藍は次々に建立されましたが、同時に原始教会の純粋な使徒たちの信仰は薄められていきます。そして教会が中世の世俗社会をも支配する長い時代が続きます。神に似せて創造された「人」はこのようなことにいつまでも耐えることはできません。ゆえに新しい大変革の時が来なければなりません。

次の大変革な時
 15世紀になると、世界(特に今日のヨーロッパ世界)に科学、文化、経済などあらゆる面に大きなエネルギーのうねりが出てきたのです。新しい世界の時代です。
 a.科学
   コペルニクス(1473)による地動説
   コロンブス(1492) 新大陸発見
   マゼラン(1519?22)世界周航  
 b. ルネッサンス
   ミケランジュロ(1475年生)
   ラファエル (1483年生)
 c. 人文主義の時代(ヒュウマニズム)
   エラスムス(1466年生)
 d. 宗教改革の時代
   ウィクリフ(1384年生)
   フス   (1415年生)
   サボナローナ(1498年生) 
そしてついに、新しい変革、すなわち科学、文化、経済などなどの大発展の最後に、なくてならない宗教改革の炎となるルター(1483〜1546)が登場しました。こうしてプロテスタント教会が生まれました。このプロタンテズムによって、その後の世界は大きな変化・進展をします。しかし、これもカトリック教会がそうであったように、その時から約500年を経た20世紀になると、カトリック教会と同じ轍を踏み、その結果が75年前に世界大戦が終わって、5千万人〜8千万人とも言われる犠牲者を出したのにもかかわらず、大国だけでなく多くの国々がいまなお新兵器の開発にしのぎをけずっています。そして現在コロナウイルスによって全世界は混乱におちいってしまいました。ところがここではっきりしたことが分かりました。それは、

さらなる大変革な時
 が今到来したのであるということです。15世紀に、社会のあらゆる分野(政治、経済、科学 文化など)特にグーテンベルクが印刷機を発明して、1455年ごろ聖書を発行したことが宗教改革に大きな影響を与えたと言われます。アブラハムから約2000年の歴史は、主キリストが到来するまでの準備期間です。すでに記したように、この地上にキリストが誕生する一番良い時が準備された時が整ったのでした。それでキリストは誕生され、神は人類救済計画を成就されたのでした。主キリストが十字架上で発せられた最期の言葉は、
 すると、イエスはそのぶどう酒を受けて、「すべてが終った」(テテレスタイ)と言われ、首をたれて息をひきとられた。(ヨハ19:30)
このすべてが終ったは、神が長きにわたって進められてきたご計画がついに成就したという意味です。そして、この時からさらに2000年が過ぎ、その間にキリスト教は全世界に広がり現在世界人口の33%即ち3人に一人がキリスト教徒とのことです。
 第二次世界大戦が終わるまでは、世界はヨーロッパのキリスト教文明の下で発展してきました。政治、経済、文化、スポーツ、宗教など。そしてアフリカ、アジア、そのたの地域がヨーロッパ諸国の植民地とされ、ヨーロッパ文明諸国の繁栄のために搾取されてきたとさえいうことができます。しかし、その大戦が終結すると、植民地は続々と独立しました(現在独立国家は197)。
 世界大戦後、東西冷戦が長く続きました。多くの混乱が世界の各地で次々に起きましたが、日本は新憲法の下で戦争を放棄したおかげで平和が続き、世界の奇跡とも言えるジャパン・アズ・ナンバーワンなどと言われ、アメリカに次ぐ世界第2の経済大国になりました。しかし、中国の台頭が激しく、ついに日本を越えて世界第二の経済大国となりました。歴史は西漸すると言われますが、これまで世界第一はアメリカ(現在も)でしたが、そう遠くない日に、世界の中心は中国に移るように思います。ところが今年その中国から、今世界を大混乱に陥れたパンデミックコロナが起きてあっという間に世界に広がりました。その結果、急にいわゆるリモート・ワークなるものが起きました。このような事が可能となったのは、偶然ではありません。世界大戦後には政治の世界で大変革が起きたように、科学も驚くべき進歩発展をしました。特にコンピューターの発明がもたらした影響ははかり知りません。十数年前のそれは大型で、更に一般人には購入もできず、容易に使えませんでした。それがアッという間に小型化され、誰でも購入し、使用出来るまでになったと思ったら、今はスマホの時代となってしまいました。六十年前はアメリカの友人と文通するには、互いに一週間ずつもかかりましたが、今は時間の距離はなくなってしまいました。毎日外国から、メールが来る時代です。これこそ新しい大変革の時の到来です。今から2000年前のキリスト時代に触れましたが、それは政治、経済、科学、文化のすべてに及んだように、その特徴の一つは、世界の共通語が生まれたことです。十年ほど前、エジプト・イスラエル、トルコ、ギリシアを訪れましたが、どこでも英語を話せれば、コミニュケーションができるのです。日本でもついに小学校から英語が必修となるのです。世界はもはやいかなる国も、〇〇第一などと主張しても生存し得ないのです。
 コロナウィルス事件は、多くの厳しい問題を起こました。特に医療、経済など毎日問題になっています。工場、店等々の閉鎖、そして働き場を失ってしまった人たちが大勢います。これら未曾有の大混乱を終息するには、人知の限りを尽くしてとりくまねばなりません。しかし、あえて述べますが、人間の政治、経済、科学などすべての力を結集しても、解決できません。人類に99%力があっても、最も大切な1%が欠けているからです。それは2000年前に、キリストが残された次の言葉です。
 主(キリスト)は答えて言われた、「マルタよ、マルタよ、あなたは多くのことに心を配って思いわずらっている。 しかし、無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。(ルカ 10:41,42 口語訳)
この、一つだけとは、キリストの命の言葉です。そして一人でも多くの人がこの命のパンを食べて生きる時に、99%は初めて100%となります。すなわち本当の神の愛が人の心に溢れて、敵をも愛せる心をキリストから頂けるからです。どうかこの変革が日本から始まりますように!


私は命のパンである!I am the bread of life!お知らせ

わたしは天から下ってきた生きたパンである。それを食べる者は、いつまでも生きるであろう。わたしが与えるパンは、世の命のために与えるわたしの肉である」ヨハネ6:51
I am the living bread that came down from heaven. If you eat this bread, you will live forever. The bread that I will give you is my flesh, which I give so that the world may live."John 6:51

  命の言葉の飢饉
見よ、その日が来ればと、主なる神は言われる。わたしは大地に飢えを送る。それはパンに飢えることでもなく、水に渇くことでもなく、主の言葉を聞くことのできぬ飢えと渇きだ。人々は海から海へと巡り、北から東へとよろめき歩いて、主の言葉を探し求めるが、見いだすことはできない。(アモス書8章11節、12節)
大分前のことです。小田急デパートの8階にある大きな書店へ行きました。大勢の客でにぎわっていました。たくさんある書棚を見て宗教書の棚を見付け、どんな本があるのかと思い、キリスト教とある所を見ると、聖書について書かれた書が5,6冊ありましたが、その隣には創価学会の池田大作氏の「人間革命」などの書がたくさん積んでありました。書店員さんに聖書や賛美歌はないのですかと尋ねたら、置いてありませんというのです。ベストセラーと言われている「聖書」がこんな大きな書店に一冊も置いてないのです。(以前はありました、私の著書も置いてもらったことがありました)。これは何を意味するのでしょう? 日本人は聖書などに見向くことなく、心に留めることもなくなってしまったのでしょうか。これは、まさに、命の言葉の飢饉です。預言者アモスの言葉がります。
私たちは今、その
恐ろしい大飢饉に見舞われていることに全く気づいていないのです。これが恐ろしいのです。

あなたの若い日に
あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ。悪しき日がきたり、年が寄って、「わたしにはなんの楽しみもない」と言うようにならない前に(伝道の書、または「コヘレトの言葉」12:1)
So remember your Creator while you are still young, before those dismal days and years come when you will say, "I don't enjoy life."Ecc12:1
上記にあるように、高齢者になった方々から「何をやったら良いのか分からない」とか、「やることが何もない」などと言われるのを耳にすると悲しくなります。私は既に卒寿を超えましたが、若かったころよりも感謝、希望、心の平安を与えられます。それは若き日に、私の造り主なる全能者を知ることが許されたからです。この恵み、喜びを一人でも多くの方にも知っていただきたいのです。
Today we have many old age people among us. Sometimes I hear them speak "I don't know what to do today, or I don't know how to spend this day. As for me, I am much more hopeful, thankful, and peaceful in my heart than my younger days. I am ninty-one years old now.


ここにこそ希望がある! Here is the great comfort and helpful power!
神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。ローマ8:28 。
We know that in all things God works for good with those who love him, those whom he has called according to his purpose.Rom.8:28

全地の中で最もすばらしい所

その日にわたしは彼らに誓って、エジプトの地から彼らを導き出し、わたしが彼らのために探り求めた乳と蜜との流れる地、全地の中で最もすばらしい所へ行かせると言った。エゼ20:6 【口語訳】
 エルサレムを中心としたイスラエルの地を、預言者エゼキエルは【全地(世界)】の中で最も素晴らしい所と言っています。しかし、私は思います。そこに主キリストがいてくださらなければ、決して素晴らしい所とはなりません。ゆえに、キリストがいてくださる所が、この世で一番素晴らしい所であると私は思います。2020年8月1日記。   
  エルサレム (嘆きの壁の前で)         オリーブ山   


トランプ大統領が「
エルサレムをイスラエルの首都にする」と宣言したことによって、パレスチナ問題は世界で最も危険な地域となってしまいました。私は十年以上もイスラエルとパレスチナの歴史と地理をを学びました。それを纏めたのが「出版書案内2」に載せました「神の摂理より見た聖書の歴史・地理」(ページ143〜145参照)です。そこに記しました、「エルサレムの名称」についての記事は次の通りです。
エルサレムとはエル」と「サレム」との合成語である。「エル」は隅石を置く(laying a corner stone)を意味し、「サレム」は平和(peace)の意である。したがって、エルサレムとは平和の基礎、または土台と呼ばれるものである。エジプトのアマルナ書簡では、エルサレムをベテサレムと呼んでいる。この意味は平和の家である。
 そもそもだれがこの町にこの名称「エルサレム」を付したのであろう。「平和の基礎」、「平和の家」! 個人にとっても、家庭にとっても、はたまた国家にとっても、欲しいものは平和の家であり、平和の国家であり、完全なる平和の土台がしっかりと据えられることである。この世は大体に次の二者のいずれかに属する。すなわち、一方は富あり、すべての物に満ち足りているが平和がなく、他方は貧しくて物に欠乏し、惨めな日々を送りつつ、やはり平和を持たない。
エルサレムはあらゆる角度から見て、確かに「平和の家」と呼ばれるにふさわしい地である。しかし、そこに「平和の主人」が住んで下さらなければ、名実共に平和の家となることはできない。しかるにエルサレムは、神の預言者たちを迫害し、石で打ち殺して来たのである。今より約二千年前、この「平和の家」に真の主人公がお出でになられた。しかしエルサレムはこの事を知ろうともせず、認めようともしなかった。
ルカによる福音書一九章によると、キリストはその時、エルサレムへの最後の旅も終わろうとされていた。エリコを出発してどんどん坂道を上り、進むこと二十数キロメートル、エリコより標高差一千メートルほどの所まで登りつめるとオリーブ山頂である。このオリーブ山の頂上から約六百メートル前方に見下ろせるエルサレムの眺望は、真に素晴らしいパノラマである。キリストはこれを見て、声を上げて泣かれたのである。
 そして彼が(エルサレムに)近づいた時、その都を見て、声をあげてその(エルサレムの)ために泣かれた。
 「もしおまえも、この日(今日という日)に、平和への道を知っていたなら。しかし今はおまえの目からそれはかくされている(ルカ一九・四一、四二、福田私訳)。
 ここで言う「平和への道」(口語訳聖書では「平和をもたらす道」と訳されている)とは、「平和の基礎」エルサレムの町に、今日というこの日に、その家の主人公であるキリストがお出でになったのだ、神ご自身が数千年の長きにわたって準備をし、用意された場所に、実に今、その主人公が来られたのである、という意味である。平和そのものの君が、エルサレムという平和の家の眼前に現われたのだ! そしてキリストは、エルサレムが今日という日にその事さえ分かってくれたら、と泣かれたのである。
 エルサレムは自らを「平和の基礎」と呼んだ。名称だけは実に立派である。しかし事実は、エルサレムの平和の基礎となる「平和の主」を受け入れなかった。
 ああ、エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、おまえにつかわされた人たちを石で打ち殺す者よ。ちょうど、めんどりが翼の下にそのひなを集めるように、わたしはおまえの子らを幾たび集めようとしたことであろう。それだのに、おまえたちは応じようとしなかった。見よ、おまえたちの家は見捨てられてしまう(マタイ二三・三七、三八)。
 ああ、エルサレムはキリストのこの天来の尊い涙を、ついに認めることができなかったのである。


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ガリラヤの糸杉









中央白「主の涙の教会」
(ルカ19:41以下)