神が私に与えてくださった人(パートナー)

神は私が探し求める前に、既に私が伝道者として働くために最善の助け手(パートナー)を選び用意しておいてくださいました。即ち妻です。私が彼女と婚約を交わした後で、彼女は日記に次のように記してありました。

生涯の伴侶は自ら求める者ではなく、主より与えられる者である。この意味で私は福田兄を与えられた事は心から感謝せずにはおられない。

 私は神によって選ばれた伝道者の妻とされるべく定められたのであるゆえに、神が生涯導き給うことを信じて疑わない。私はまず聖書をもっと良く理解できるようにとか、もっと人を愛せるようにとか、もっと教義に忠実になれるようにとは祈らない。第一に祈りもとむべきことは私が全く主の者とされん事である。私が全く主に捉えられ、主の意志によって全たき支配のうちに入れられん事である。自分を捧げ切ることが できずに何故伝道者の妻となることができようか。何故人に福音が伝えられ得よう。主よ、願わくば与えられた祈りの数年の間を全き服従を学ぶ時となさせ給え。(彼女の22歳の時の日記より。彼女が81歳で天に召される直前、彼女が私に手渡してくれた5冊の日記帳より)

彼女の信仰は、この記録を残してから、召される日まで、約60年変わることがなかった。本当に全生涯を主キリストに捧げ、そして私を助けてくれたのである!

 

現世から来世の希望へ

人をして非俗的ならしめ、無欲ならしめ、非現実的ならしむるものにして、鮮明にして確実なる来世の希望のごときはないのである。この希望を欠いて、この罪の世にありて信者の生涯を送ることはできない、この世の不義はあまりに多くある。暗黒の勢力はあまりに強くある。この世のみに意を留めて、不信は当然の結果といわざるをえない。されども目をあげて上を仰がんか、聖書に示されたる神の約束を信ぜんか、完成さるべき造化と拯救(たすけとすくい)とを望まんか、ここに懐疑の雲霧は晴れて、正義敢行の勇気は勃然(ぼつぜん)としてわきでるのである。キリスト再臨の希望は信者の歌の源である、愛の動機である、善行の奨励である。これありて、われらはこの涙の谷にありて、歌いつつわが父の家へと進み行くことができるのである。(内村鑑三「研究第二の十年)
内村先生が百年以上も前に言われたことが、現在の世界の姿、情況そのものを示しています。人の心は現世をいかにいきるかが第一で、来世など二の次、三の次である。

新しいお知らせ

このホームページのブログを始めて、二年程のあいだに3回ぐらいしか投稿していません。それは私にはそれをやる時間が無かったからです。コロナ騒ぎになってから、私は2年余り下記の手紙のコピーにありますように、ただ一つのことを、日曜・土曜休みなく続けてきたのです。今、それがいち段落したので、再会しました。以下のコピーした友人達へのお知らせを読んでいただけるならば、お分かり出来るでしょう。

長いコロナとの戦い、そしてウクライナで起きている悲劇が容易に収まらない中、季節は新緑を迎える時となりました。
 すっかりご無沙汰しております。お変わりなきようにと念じます。私はお陰様で今日まで変わりなく過ごして参りました。ご無沙汰しました理由は、実はこの六年間、ひたすら恩師山本泰次郎先生の聖書注解書「マタイによる福音書」「ヨハネによる福音書」を「国民の聖書」として編集してきたのです。印刷本ですのでこれをスキャンしてワードに変換してデジタル化し、更にそれをアドビというソフトで編集します。このために私は他のことは犠牲にするほかありませんでした。ですからパソコンを開いてもフェスブックなどもほとんど見ることもせず、失礼してきました。自分の年齢(九三歳)を考えると時間に余裕がなくなってきたからです。そしてそれらのデジタル化したものをデンシブックにすることを思い立ち二年半になります。友人に助けられてやっと「マタイによる福音書」を上、中、下巻の三冊にして全世界の人が読めるようになりました。
 山本泰次郎先生のこれらの著書は稀有な書で、先生が若き日から祈り、切望されてきた「国民の聖書」即ち「聖書を国民の書に」「国民を聖書の民」の思いが込めれています。ですから一人でも多くの方々にひも解いていただきたいのです。これは難しい書ではなく、先生の日々の実体験から生まれたものです。この世に命を与えられた人生をいかにして生きるか。その本質を示してくれます。これは紙の本ではなく、タブレットで読めます。文字も大きくできるのでいいです。印刷したQRコードを開けばすぐに先生の本が見られます。お知らせまでに申し上げます。(一冊の値段は五百円です)
   二〇二二年四月十日               福 田 秀 雄