クリスマス、同信の友に送る

クリスマス、同信の友に送る
クリスマスに際して、死と死者とについて語るは縁起わるしという者があるか。それは不信者のいうことであって信者のいうことではない。クリスマスはことに友人を思うの時である。そしてわれらの友人の内で多くはすでに主にありて眠ったのである。われらは地上に残されてクリスマスを守るも、彼らがわれらと共におらざるがゆえに堪えがたき歎きを感ずるのである。われらと共に楽しきクリスマスを守りし者は、今はその愛する姿をわれらの間に見せないのである。そのことを思うて、楽しきクリスマスは楽しくなくなるのである。そして、かかる時にパウロのことばが一層強くわれらの心に響きわたるのである。
兄弟よ、なんじらの嘆きは他の人(世人)のごとくならざらんことを願う(テサロニケI 4:13以下参照)
と。われらは愛する者に別れて地上に淋しきクリスマスを守るといえども、それはいつまでも続くことではない。「イエスによれるところのすでに眠れる者を、神、彼と共に携え来たりたまわん」と。なんと大なる慰めではないか。われらは再び彼らと共に楽しきクリスマスを守ることができるのであるという。天国におけるクリスマス、それがほんとうのクリスマスである。
神、彼らの涙をことごとくぬぐい取り、また死あらず、かなしみ悩みあることなし(黙示録21・4参照)
という状態の下に守らるるクリスマス、それとくらべて今日のクリスマスは、楽しとも喜ばしとも称するに足りないのである。しかしてまたほんとうのクリスマスのわれらを待つあるを知るがゆえに、仮りのクリスマスが楽しくあるのである。ハバガル夫人の歌にいわく
ああクリスマスよ、なんじ再び来たりしか
 なんじのすべての喜びと、またすべての悲しみをもって
と。そしてそのすべての悲しみを打ち消すものはテサロニヶ前書におけるパウロの慰めのことばである。げに待たるるは逝(さ)りにし愛する者との再会の日である。(内村鑑三、新約聖書注解全集13 頁225ff参照)