国民の聖書

ホームページずっと触ることができませんでした。いろいろアップロードしたいことは山ほどあるのですが、90歳の孤独老人には物理的に難しいのです。この二ヶ月何もかも放り出して「国民の聖書(下)の編集に取り組んできました。目の疲れがひどいですが、自分の日々の生活をすべて自力で出来ることを感謝しつつ、本当にわずかずつでもこのようなことが出来る事を感謝せずにはいられません。

二種の宗教

宗教に二種ある。ただ二種あるのみである。すなわち自力宗と他力宗と、これである。儒教、神道、回教、ユダヤ教、みな自力宗である。そうして浄土門の仏教は他力宗であるが、絶対的他力宗でない。信仰を救いの条件として要求する宗教は、いまだ絶対的他力宗と称することはできない。信仰そのものまでを神のたまものとして見るに至って、宗教は絶対的他力宗となるのである。そうしてキリストの福音はかかる宗教である。すなわち絶対的他力宗である。いわく、「なんじらの信ずるは、神の大能の感動によるなり」(エペソ書1・19)と。信者の信仰そのものが神のたまものである。ゆえに誇るの余地が寸筆(すんごう)ないのである。ただ祈るのである。祈り求むるのである。そうして、その祈る心をさえ祈り求めて、これを与えられて、神に感謝するのである。造られし人は、造りし神に対して、絶対的服従に出づるよりほかに、取るべき態度はないのである。信仰の道はつまるところ、祈り求むろの道にほかならないのである。(内村鑑三聖書注解全集14巻 66頁より)

私はキリストを知るまでは、すべて自力でした。しかし、今は私のすべて(健康、知識、仕事)が神から与えられたものであることを信じて感謝と心の平安、それは人の思いを遥かに超えた安らぎを日々経験しているのです。

キリスト教はいわゆる宗教ではない。

キリスト教というからとて、これを、他のいわゆる宗教と同一列に置くは誤っている。キリスト教はいわゆる宗教ではない。神より人への啓示である。宗教は人が神を求めるものであるが、キリスト教は神が人を求めるものである。ゆえに前者は、人の努力、工夫、攻究、修養、論理、修道に重きを置くに反し、後者はただ神の恩恵の受納を主眼とするものである。自己が種々の方法をめぐらして神に近寄り行くのが普通の宗教であって、ただ恩恵を受け感謝喜悦に入るのがキリスト教である。(内村鑑三聖書注解全集17、245頁)より

あなたはどちら?

わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なると、主は言われる。天が地を高く超えているように、わたしの道は、あなたたちの道を、わたしの思いは、あなたたちの思いを、高く超やえている。(イザヤ55:8,9)
キリスト教というからとて、これを、他のいわゆる宗教と同一列に置くは誤っている。キリスト教はいわゆる宗教ではない。神より人への啓示である。宗教は人が神を求めるものであるが、キリスト教は神が人を求めるものである。ゆえに前者は、人の努力、工夫、攻究、修養、論理、修道に重きを置くに反し、後者はただ神の恩恵の受納を主眼とするものである。自己が種々の方法をめぐらして神に近寄り行くのが普通の宗教であって、ただ恩恵を受け感謝喜悦に入るのがキリスト教である。(内村鑑三聖書注解全集17 頁245)

人の思いを遥かに超えた十字架

キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。「木にかけられた者は皆呪われている」と書いてあるからです。(ガラテヤ3:13)
死体を木にかけたまま夜を過ごすことなく、必ずその日のうちに埋めねばならない。木にかけられた死体は、神に呪われたものだからである (申命記21:23)
2000年前、人々は一斉に叫んだのです。
ローマ総督ピラトが、「では、メシアといわれているイエスの方は、どうしたらよいか」と言うと、皆は、「十字架につけろ」と言った。ピラトは、「いったいどんな悪事を働いたというのか」と言ったが、群衆はますます激しく、「十字架につけろ」と叫び続けた。(マタイ27:22)
罪のないキリストが私たちのために身代わりとなって、神に呪われて十字架に架けられて犠牲の死を遂げられたと言うのです。何故このようなことを神は許したもうたのでしょう。それは、使徒ヨハネが記している通りです。
神は、その独り子をお与えになった(ここの与えるという語は=人々がキリストを辱め、なぶり殺しをする事を許された意味)ほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。ヨハネ3:16)
今朝マタイによる福音書27章を読んで、私は頬を涙で濡らすことしかできません。