キリストの涙

聖書の記録によるとキリストは2度泣かれた。なぜ泣かれたのかについては、ブログの終わりころにわかるであろう。ではキリストがおよそ30歳のころ、故郷ナザレの村を後にされたころから述べていく。
夫に先立たれ、後に5人の男子と2人(?)の女子が残された妻。その長男は母を助け、村でも特別に優れた大工であった。美しい緑深き山里、裏山に登れば、はるか西の彼方には夕日に照らされた輝く海の波が美しい。
時は今からおよそ2千年前、イエスはは30歳になると、家も仕事もすべてを捨てて、美しい湖岸の草原で彼の人生の第1声を人々に宣言した。
「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」
この言葉が、イエスのその後3年間の始めである。
故郷ナザレを後にしたイエスは、二大文明を結ぶ海の道(via maris)に沿い、ガリラヤ地方で最も豊かな、そして人口も多い町カペナウム(カファルナウム)へ向かった。ここは特別に重要な所であったからである。なぜならここは古代二大文明(メソポタミアとエジプト)の接点・支点となった所であったからである。
ガリラヤ地方はパレスチナ地方における交通の要所である。エジプトからダマスコを経てメソポタミアへ至る大街道、エルサレム、アンテオケへ通じる街道、ツロ、トレマイ(アッコ)に出る地中海への街道というように、東西南北に走る世界の交通路はすべてガリラヤを横切り、特にガリラヤ湖周辺の北部地区を最も重要な地域となしている。更にガリラヤは、レバノン山(レバノン山脈)とヘルモン山(アンチレバノン山脈)に近いので雨量も多く、穀物、果樹が豊かに実る。オリーブ油、ぶどう酒、小麦はガリラヤの重要な輸出品であった。それに加えて豊かな森と、ガリラヤ湖に溢れる魚群、これらのものが揃ってこの地方は、必然的に活発、能動的ならざるを得ないのである。特にカペナウム付近は人口も多く、種々の企業が盛んであった。カペナウムはキリスト時代のガリラヤにおける最大の都市であった。

紀元二六、七年ごろ(キリストの誕生はBC5か6年)主イエスは静かな村ナザレを後にして、ガリラヤにおいて最も活発なカペナウムへと行かれる。それは、片田舎ではなく世界の大路において、ヨナよりもソロモンよりも大いなる者(マタイ12・41、42)が今現われたことを知らせるためであった。
ガリラヤ湖畔に出ると、そこで二人の漁師が網を打っているのに出会った。キリストは言われた「私について来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう」。キリストの最初の弟子となったペテロとアンデレである。また少し進んで行くと二人の兄弟ヤコブとヨハネが船の中で網の手入れをしていた。キリストはこの二人をも呼ばれると、ペテロたちと同じようにキリストに従ったのである。この4人が最初の弟子で、後にペテロとヨハネは大きな働きをする。(つづく)

 

 

 

 

神に召され、神を愛する者

明日はアメリカの大統領の選挙です。二人の候補者が大接戦をしています。この結果がアメリカだけでなく、世界の今後に大変な混乱をもたらすであろうと報道されています。しかし、神は人の思いとは異なり、人間の計画とは異なって、神御自身の計画があって、最終的には下記の聖句のようにしてくださるのです。即ち、キリストによって召され、神を愛する者たちに対してです。しかし、神を、キリストを口先だけで信じると言っても自分のことだけを思っている者には下記の聖句は決して当てはまりまん。                         キリストによって召され、キリストを愛してやまない人にとっとは  神を愛する者たち、すなわち、はっきりとした目的をもって神が召してくださった者たちに対して、神は(彼らと)共に働かれ、すべての事を善としてくださることを私たちは知っています。(ローマ8:28の私訳)「神を愛する者たち」とは、神がある一つのはっきりとした目的に従って召し出された者たちの事です。

現代の世界の姿

このことは知っておかねばならない。(この世の)終りの時には、苦難の時代が来る。その時、人々は自分を愛する者金を愛する者大言壮語する者高慢な者神をそしる者親に逆らう者恩を知らぬ者神聖を汚す者、 無情な者融和しない者そしる者無節制な者粗暴な者善を好まない者、 裏切り者乱暴者高言をする者神よりも快楽を愛する者、 信心深い様子をしながらその実を捨てる者となるであろう。こうした人々を避けなさい。(テモテ第II5章1節~5節) 今のアメリカの選挙を見ると、不安を感じます。

 

 

 

10月25日、主の日

God wants everyone to be saved and to know the whole truth,

which is there is only one God, and Christ Jesus is the only one,

who can bring us to God.

Jesus was truly human and he gave himself to rescue all of us.

God showed us this at the right time.(1 Timothy 2:4-6 CEV)

以下は、上文テモテ第Ⅰの手紙2章4節-6節の私訳)

神はすべての人が救われることと、本当の真理とを知ることを 願っておられる。その真理とは、

真の神はただお一人であって、それはキリストただ一人です。そして、キリストのみが私たちを神のみもとまで導いてくれることができます。

イエスは私たちと全く同じ人間になられ、そして私たちすべての者を救ってくださるために十字架上に犠牲となってくださったのです。

神はこの事実をもっとも良い時に示してくださったのです。

神の時

人類の歴史には多くの「特別な出来事」があります。古くはノア洪水、最近では2011年の東日本大地震と津波のような自然大災害、人災では数え切れなほどの戦争など。そして、今は全世界を襲い混乱に陥れたコロナウイルスなど。しかし、これらの中で何ものも比肩できないものがあります。その第1の大いなるものは、今より約2000年前の事です。それをあかす言葉は次の【時は満ちた】 です。即ち下記の聖句です。
「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」。マルコ1章15節
The time is fulfilled, and the kingdom of God is at hand. Repent, and believe in the gospel.” 【NKJV】
The right time has come,” he said, “and the Kingdom of God is near! Turn away from your sins and believe the Good News!” 【TEV】
マルコによる福音書によると、主キリストが活動を開始された時の第一声は、
【時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」】です。
この時は満ちたの「」という単語は特別な意味があるのです。ちょうどよい時最もふさわしい時一番良い時などを表す単語なのです。
キリストがお生まれになった時、即ち今から約2000年前のエジプト、メソポタミア、ローマ、ギリシアなどを含む、地中海世界全域は歴史始まって以来初めて特別な時が生まれました。
1.長い混乱の時代が終わって、いわゆるパックス・ローマナ(ローマ式平和)が生まれました。それは本当に素晴らしいものでした。ことわざに「すべての道はローマに通じる」とあるように、平和のおかげで旅行が自由にできるようになったのです。
2.次の大切な事は、地中海世界全域が一つの言語、即ち共通語の時代でした。ローマ帝国が支配していたのにもかかわらず、ラテン語ではなくギリシア語がローマ帝国全域で共通語として普及いしていたのです。これについて詳しく述べると長くなるので止めますが、次の一事でも明らかです。
新約聖書は、ユダヤ人であるペテロ、ヨハネ、パウロなどによって書かれました。彼らの母語はイスラエル語です。それなのに外国語であるギリシア語で書いています。ペテロやヨハネはガリラヤ湖の漁師でした。特別な人たちではありませんでした。また使徒パウロは現在のトルコ、マケドニア、ギリシアなどあらゆる所でギリシア語で福音を伝えることができたのです。
このように主キリストが生まれられて、福音を伝え、十字架に架かられ、墓に葬られて三日目に復活されて、神の人類救済の計画が成就するのに最善の時は、アブラハムから今日まで約4000年の歴史でこの時ほどふさわしい時は他にはないのです。
このようにして始まったキリスト教は約300年間ローマ帝国に容認されませんでしたが、紀元313年ミラノ勅令で公認され、更に392年に帝国の国教となりました。この時以後キリスト教会はますます発展します。そして立派な大伽藍は次々に建立されましたが、同時に原始教会の純粋な使徒たちの信仰は薄められていきます。そして教会が中世の世俗社会をも支配する長い時代が続きます。神に似せて創造された「人」はこのようなことにいつまでも耐えることはできません。新しい大変革の時が来なければなりません。

次の大変革な時
15世紀になると、世界(特に今日のヨーロッパ世界)に科学、文化、経済などあらゆる面に大きなエネルギーのうねりが出てきたのです。新しい世界の時代です。
a.科学
コペルニクス(1473)による地動説
コロンブス(1492) 新大陸発見
マゼラン(1519∼22)世界周航
b. ルネッサンス
ミケランジュロ(1475年生)
ラファエル (1483年生)
c. 人文主義の時代(ヒュウマニズム)
エラスムス(1466年生)
d. 宗教改革の時代
ウィクリフ(1384年生)
フス   (1415年生)
サボナローナ(1498年生)
そしてついに、新しい変革、すなわち科学、文化、経済などなどの大発展の最後に、なくてならない宗教改革の炎となるルター(1483~1546)が登場しました。こうしてプロテスタント教会が生まれました。このプロタンテズムによって、その後の世界は大きな変化・進展をします。しかし、これもカトリック教会がそうであったように、その時から約500年を経た20世紀になると、カトリック教会と同じ轍を踏み、その結果が75年前に世界大戦が終わって、5千万人~8千万人とも言われる犠牲者を出したのにもかかわらず、大国だけでなく多くの国々がいまなお新兵器の開発にしのぎをけずっています。そして現在コロナウイルスによって全世界は混乱におちいってしまいました。ところがここではっきりしたことが分かりました。それは、

さらなる大変革な時
が今到来したのであるということです。15世紀に、社会のあらゆる分野(政治、経済、科学、文化など)特にグーテンベルクが印刷機を発明して、1455年ごろ聖書を発行したことが宗教改革に大きな影響を与えたと言われます。アブラハムから約2000年の歴史は、主キリストが到来するまでの準備期間です。すでに記したように、この地上にキリストが誕生する一番良い時が準備された時が整ったのでした。それでキリストは誕生され、神は人類救済計画を成就されたのでした。主キリストが十字架上で発せられた最期の言葉の一つは、
すると、イエスはそのぶどう酒を受けて、「すべてが終った」(テテレスタイ)    と言われ、 首をたれて息をひきとられた。(ヨハ19:30)
このすべてが終ったは、神が長きにわたって進められてきたご計画がついに成就したという意味です。そして、この時からさらに2000年が過ぎ、その間にキリスト教は全世界に広がり、現在世界人口の33%即ち3人に一人がキリスト教徒とのことです。
第二次世界大戦が終わるまでは、世界はヨーロッパのキリスト教文明の下で発展してきました。政治、経済、文化、スポーツ、宗教など。そしてアフリカ、アジア、そなたの地域がヨーロッパ諸国の植民地とされ、ヨーロッパ文明諸国の繁栄のために搾取されてきたとさえいうことができます。しかし、その大戦が終結すると、植民地は続々と独立しました(現在独立国家は197)。
世界大戦後、東西冷戦が長く続きました。多くの混乱が世界の各地で次々に起きましたが、日本は新憲法の下で戦争を放棄したおかげで平和が続き、世界の奇跡とも言えるジャパン・アズ・ナンバーワンなどと言われ、アメリカに次ぐ世界第2の経済大国になりました。しかし、中国の台頭が激しく、ついに日本を越えて世界第二の経済大国となりました。歴史は西漸すると言われますが、これまで世界第一はアメリカ(現在も)でしたが、そう遠くない日に、世界の中心は中国に移るように思います。ところが今年その中国から、今世界を大混乱に陥れたパンデミックコロナが起きてあっという間に世界に広がりました。その結果、急にいわゆるリモート・テレワークなるものが起きました。このような事が可能となったのは、偶然ではありません。世界大戦後には政治の世界で大変革が起きたように、科学も驚くべき進歩発展をしました。特にコンピュータの発明がもたらした影響ははかり知りません。十数年前のそれは大型で、更に一般人には購入もできず、容易に使えませんでした。それがアッという間に小型化され、誰でも購入し、使用出来るまでになったと思ったら、今はスマホの時代となってしまいました。六十年前はアメリカの友人と文通するには、互いに一週間ずつもかかりましたが、今は時間の距離はなくなってしまいました。毎日外国から、メールが来る時代です。これこそ新しい大変化革の時の到来です。今から2000年前のキリスト時代に触れましたが、それは政治、経済、科学、文化のすべてに及んだように、その特徴の一つは、世界の共通語が生まれたことです。十年ほど前、エジプト・イスラエル、トルコ、ギリシアを訪れましたが、どこでも英語を話せれば、コミニュケーションができるのです。日本でもついに小学校から英語が必修となるのです。世界はもはやいかなる国も、〇〇第一などと主張しても生存し得ないのです。
コロナウィルス事件は、多くの厳しい問題を起こました。特に医療、経済など毎日問題になっています。工場、店等々の閉鎖、そして働き場を失ってしまった人たちが大勢います。これら未曾有の大混乱を終息するには、人知の限りを尽くしてとりくまねばなりません。しかし、あえて述べますが、人間の政治、経済、科学などすべての力を結集しても、解決できません。人類に99%力があっても、最も大切な1%が欠けているからです。それは2000年前に、キリストが残された次の言葉です。
主(キリスト)は答えて言われた、「マルタよ、マルタよ、あなたは多くのことに心を配って思いわずらっている。 しかし、無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。(ルカ 10:41,42 口語訳)
この、一つだけとは、キリストの命の言葉です。そして一人でも多くの人がこの命のパンを食べて生きる時に、99%は初めて100%となります。すなわち本当の神の愛が人の心に溢れて、敵をも愛せる心をキリストから頂けるからです。どうかこの変革が日本から始まりますように!!

今日の聖句

彼らの場合、この世の神(偶像)が不信の者たちの思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光の福音の輝きを、見えなくしているのである。しかし、わたしたちは自分自身を宣べ伝えるのではなく、主なるキリスト・イエスを宣べ伝える。わたしたち自身は、ただイエスのために働くあなたがたの僕にすぎない。「やみの中から光が照りいでよ」と仰せになった神は、キリストの顔に輝く神の栄光の知識を明らかにするために、わたしたちの心を照して下さったのである。しかしわたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである。わたしたちは、四方から患難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない。迫害に会っても見捨てられない。倒されても滅びない。(コリント第2:4:4~9 【口語訳】)

お薦めの図書= 新約聖書ガイドブック

本書は、新約聖書27巻各書の紹介(筆者の執筆目的、当時の時代背景、その他)を、新約聖書聖書注解全集全12巻より引用してまとめたもの。マタイによる福音書はいつ、どのような時に、何の目的の為に書かれたのか、黙示録はどこで、誰によって何を伝えようとして書かれたのなどを、分かりやすく説明してくれるもの。これらを知れば知るほど、聖書を読むことが楽しくなります。

アウシュビッツ

2020年8月16日
夜、NHKスペシャルで「アウシュビッツで発見、地中に埋められた文書……75年目の告発云々」を見た。私は1997年にイスラエルに行った時エルサレムにある「アウシュビッツ記念館」を訪ねた時に衝撃を受けたが、今回の映像ではさらなる大きな恐ろしさを知った。神を恐れぬ人間の極悪さ、言葉にすることさえできなない罪深さの極限、これ以上の【罪】は無い。私は思う、この時ヨーロッパのキリスト教文明なるものは終わったのであると。それは、紀元前約2000年アブラハムから主キリストまでの古き時代が終わって、更にキリストから次の2000年の20世紀まで、すなわち第二次世界大戦が終わるころまでである。そして21世紀を迎えた時、科学の驚くべき発展によって、世界は今新しい世紀に突入したのである。その事実を明らかにしたのがコロナウイルスである。喫緊の課題はそのワクチンの開発ではあるが、人類が少しでも長く生存しうるために必要なものは、神の言葉、即ちキリストの命のパンである言葉を私たちが食べることである。その時この地上に始めて真の希望が生まれるある。

ユダヤ人をガス室へ運んだ貨車(エルサレムで)

聖書ほど面白い本は無い 2020.5.18

あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。(ヨハネ 5:39)

 聖書は一名これをイエス・キリストの伝記と言ってもよいと思います。その旧約聖書なるものは、キリストがこの世に生まれ来るまでの準備を述べたものであって、新約聖書は、キリストのこの世における行動や、あるいは直接にキリストに接した人の言行などを伝えたものであります。もし聖書の中からキリストという人物を取り除いてみるならば、ちょうど弓型の石橋より要石(かなめいし)を引き抜いたようなものでございまして、その全体が意味も、形像(かたち)もないものとなるだろうと思います。聖書の解し難いのは、文字のゆえではなく、また理論のこみ入っているいるわけでもなくて、じつにキリストがその要石である事がわからないからでございます。それゆえに、ひとたびキリストと彼の真意とがわかりさえすれば、聖書ほど面白い書は世の中にまたとなく、またこれほど読みやすい書は無いようになります。(内村鑑三 一日一生 5月18日より)

クリスマス、同信の友に送る

クリスマス、同信の友に送る
クリスマスに際して、死と死者とについて語るは縁起わるしという者があるか。それは不信者のいうことであって信者のいうことではない。クリスマスはことに友人を思うの時である。そしてわれらの友人の内で多くはすでに主にありて眠ったのである。われらは地上に残されてクリスマスを守るも、彼らがわれらと共におらざるがゆえに堪えがたき歎きを感ずるのである。われらと共に楽しきクリスマスを守りし者は、今はその愛する姿をわれらの間に見せないのである。そのことを思うて、楽しきクリスマスは楽しくなくなるのである。そして、かかる時にパウロのことばが一層強くわれらの心に響きわたるのである。
兄弟よ、なんじらの嘆きは他の人(世人)のごとくならざらんことを願う(テサロニケI 4:13以下参照)
と。われらは愛する者に別れて地上に淋しきクリスマスを守るといえども、それはいつまでも続くことではない。「イエスによれるところのすでに眠れる者を、神、彼と共に携え来たりたまわん」と。なんと大なる慰めではないか。われらは再び彼らと共に楽しきクリスマスを守ることができるのであるという。天国におけるクリスマス、それがほんとうのクリスマスである。
神、彼らの涙をことごとくぬぐい取り、また死あらず、かなしみ悩みあることなし(黙示録21・4参照)
という状態の下に守らるるクリスマス、それとくらべて今日のクリスマスは、楽しとも喜ばしとも称するに足りないのである。しかしてまたほんとうのクリスマスのわれらを待つあるを知るがゆえに、仮りのクリスマスが楽しくあるのである。ハバガル夫人の歌にいわく
ああクリスマスよ、なんじ再び来たりしか
 なんじのすべての喜びと、またすべての悲しみをもって
と。そしてそのすべての悲しみを打ち消すものはテサロニヶ前書におけるパウロの慰めのことばである。げに待たるるは逝(さ)りにし愛する者との再会の日である。(内村鑑三、新約聖書注解全集13 頁225ff参照)