現世から来世の希望へ
人をして非俗的ならしめ、無欲ならしめ、非現実的ならしむるものにして、鮮明にして確実なる来世の希望のごときはないのである。この希望を欠いて、この罪の世にありて信者の生涯を送ることはできない、この世の不義はあまりに多くある。暗黒の勢力はあまりに強くある。この世にみに意を留めて、不信は当然の結果といわざるをえない。されども目をあげて上を仰がんか、聖書に示されたる神の約束を信ぜんか、完成さるべき造化と拯救(たすけとすくい)とを望まんか、ここに懐疑の雲霧は晴れて、正義敢行の勇気は勃然としてわきでるのである。キリスト再臨の希望は信者の歌の源である、愛の動機である、善行の奨励である。これありて、われらはこの涙の谷にありて、歌いつつわが父の家へと進み行くことができるのである。(内村鑑三「研究第二の十年)
内村先生が百年以上も前に言われたことが、現在の世界の姿、情況そのものを示しています。人の心は現世をいかにいきるかが第一で、来世など二の次、三の次である。(2022.4.21.)
国民の聖書」=「命の書
」今回のデンシブックをアップロードしましたのでお知らせです。友人宛てに下記の手紙を書きました。
長いコロナとの戦い、そしてウクライナで起きている悲劇が容易に収まらない中、季節は新緑を迎える時となりました。
すっかりご無沙汰しております。お変わりなきようにと念じます。私はお陰様で今日まで変わりなく過ごして参りました。ご無沙汰しました理由は、実はこの六年間、ひたすら恩師山本泰次郎先生の聖書注解書「マタイによる福音書」「ヨハネによる福音書」を「国民の聖書」として編集してきたのです。印刷本ですのでこれをスキャンしてワードに変換してデジタル化し、更にそれをアドビというソフトで編集します。このために私は他のことは犠牲にするほかありませんでした。ですからパソコンを開いてもフェスブックなどもほとんど見ることもせず、失礼してきました。自分の年齢(九三歳)を考えると時間に余裕がなくなってきたからです。そしてそれらのデジタル化したものをデンシブックにすることを思い立ち二年半になります。友人の助けられてやっと「マタイによる福音書」を上、中、下巻の三冊にして全世界の人が読めるようになりました。
山本泰次郎先生のこれらの著書は稀有な書で、先生が若き日から祈り、切望されてきた「国民の聖書」即ち「聖書を国民の書に」「国民を聖書の民」の思いが込めれています。ですから一人でも多くの方々にひも解いていただきたいのです。これは難しい書ではなく、先生の日々の実体験から生まれたものです。この世に命を与えられた人生をいかにして生きるか。その本質を示してくれます。これは紙の本ではなく、タブレットで読めます。文字も大きくできるのでいいです。印刷したQRコードを開けばすぐに先生の本が見られます。お知らせまでに申し上げます。(一冊の値段は五百円です)
二〇二二年四月 福 田 秀 雄
わたしたちの救い主である神の慈しみと、人間に対する愛とが現れたときに、 神は、わたしたちが行った義の業(良き行いをしようとする修養や努力)によってではなく、御自分の憐れみによって、わたしたちを救ってくださいました。この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現したのです。
神は、わたしたちの救い主イエス・キリストを通して、この聖霊をわたしたちに豊かに注いでくださいました。こうしてわたしたちは、キリストの恵みによって義(神の前に正しい者)とされ、希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。(テトスへの手紙3章4節〜7節)
But when the kindness and love of God our Savior was revealed, he saved
us. It was not because of any good deeds that we ourselves had done, but because
of his own mercy that he saved us, through the Holy Spirit, who gives us new birth and new life by washing us. God poured out the
Holy Spirit abundantly on us through Jesus Christ our Savior, so that by his grace we might be put right with God and come into possession of the eternal life we hope for. (Tit.3:4~7)【TEV】
天国のキリスト教
聖書(新約)はマタイから黙示録まで、即ち初めに天国で始まり、最後は天国で終わっています。
この時からイエスは教を宣べはじめて言われた、「悔い改めよ、天国は近づいた」。(マタ4:17)
「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」。 (マル1:15)
イエスはお答えになった。「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」(ヨハ18:36)
また私は、新しい天と新しい地(即ち神の国)とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。(黙21:1)
このように聖書は天国について教える書です。しかし、現在のアメリカのキリスト教は徹頭徹尾現世的キリスト教です。大統領選挙を見ればわかります。今もアメリカには、真のキリスト信者はいます。しかし、アメリカのキリスト教は現世的キリスト教であって、聖書が説いているキリスト教ではありません。私たちはこんなキリスト教を受け入れてはなりませんし、信じてはなりません。キリストから直接に「天国のキリスト教を頂いて、日本から世界に発信する責任があります。
11月1日(日)主日
現在世界はコロナウイルスのこともあって、混乱しています。分裂、差別などなど。これらの壁を打ち砕いてくれる力は、下記の聖書の言葉です。
すべての土台 (エフェソの信徒への手紙 第2章14節〜22節)
14実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、15規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、16十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。17キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。18それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。19従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、20使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、21キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。22キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。
パウロはユダヤ人です。パウロの生涯を見る時、彼は最初、最も保守的なユダヤ教徒でした。そのパウロがなぜ百八十度転回してクリスチャンになってしまったのか、その秘密がこの所に隠されています。
今ここで学ぶ所に、人生問題解決のすべての土台となる奥義(本当の教え)が記されています。私たちは今これを学び、そして知り、その精神を神から与えられるならば、他の事は知らなくとも、さほど重大ではありません。もしこの真理を知り得ないならば、私たちがどれほど知識を増し、科学を進歩させても、人類は永久に神の祝福に与ることはできません。このような驚くべき教えは、ほかの宗教、道徳には決して見出だせません。私たちは今これを知り得ることをどんなに感謝してもしきれません。
【語句注解】
14節から22節はただ一つの事を言っています。しかし、この一つほど私たちにとって大切なものはありません。人はだれでも、この一つを得たなら、人生これ以上の成功はありません。これなしに一生を終わった人生は、すべて失敗だったとさえ言えます。この教えほど重要なものはありません。そしてつまるところ、聖書全体の教えは、ここに集約されていると言っても決して過言ではありません。
14節 ◎キリストはわたしたちの平和であります。
キリストはどのようにして私たちの「平和」となられるのでしょうか。それは、
◎二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、
「二つのものを一つにし」は、今、真っぷたつに割れて争っているユダヤ人とパレスチナ人(選挙直前のアメリカなど)の敵意の壁は、キリストの十字架の犠牲によって、すっかり取り壊されてしまったということです。しかし、彼ら双方はキリストを受け入れないので、その厚い壁が残っている状態なのです。回心前のパウロのような保守的な人は今でも大勢います。これでは到底平和は来ません。
15節 ◎規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。
キリストは十字架によって、旧約聖書に記されている、「規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました」。もう律法はその使命を終えたのです。ユダヤ教徒、イスラム教徒、ありとあらゆる宗教信者にとって、これほど重大な言葉はありません。これは彼らには絶対に受け入れられない恐ろしい教えです。もし彼らがこれを受け入れ、信ずるなら、ユダヤ教、イスラム教は存在できません。その他のすべての宗教も同じです。それほどに鋭い言葉です。
私たちが十字架を見上げ、主を信じて生きる時、初めてすべての人に対する敵意は自然に失せ、私たちはキリストにあって一つとされてしまうのです。全人類の土台はキリストです。しかも十字架につけられたキリストです。私たちがすべての土台であるキリストに生きる目的を置けば、この世はその土台の上に建てられる「聖なる神殿(21節)」となります。ここにはもはや偶像礼拝は消え失せます。私たちの世界をますます複雑にして生きづらくしている状態は、大きく変化します。故に今、私たちはこの福音を全世界に声を大にして宣べ伝える責任があるのです。(福田秀雄 新約聖書注解全集8より)
神の愛
神は、わたしたちを怒りに定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによる救いにあずからせるように定められたのです。 主は、わたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです。ですから、あなたがたは、現にそうしているように、励まし合い、お互いの向上に心がけなさい。(第IIテサロニケ5:9−11 )(使徒パウロが彼の信仰の子テモテへの勧め)
わたしは天から下ってきた生きたパンである。それを食べる者は、いつまでも生きるであろう。わたしが与えるパンは、世の命のために与えるわたしの肉である」ヨハネ6:51
I am the living bread that came down from heaven. If you eat this bread,
you will live forever. The bread that I will give you is my flesh, which
I give so that the world may live."John 6:51
見よ、その日が来ればと、主なる神は言われる。わたしは大地に飢えを送る。それはパンに飢えることでもなく、水に渇くことでもなく、主の言葉を聞くことのできぬ飢えと渇きだ。人々は海から海へと巡り、北から東へとよろめき歩いて、主の言葉を探し求めるが、見いだすことはできない。(アモス書8章11節、12節)
大分前のことです。小田急デパートの8階にある大きな書店へ行きました。大勢の客でにぎわっていました。たくさんある書棚を見て宗教書の棚を見付け、どんな本があるのかと思い、キリスト教とある所を見ると、聖書について書かれた書が5,6冊ありましたが、その隣には創価学会の池田大作氏の「人間革命」などの書がたくさん積んでありました。書店員さんに聖書や賛美歌はないのですかと尋ねたら、置いてありませんというのです。ベストセラーと言われている「聖書」がこんな大きな書店に一冊も置いてないのです。(以前はありました、私の著書も置いてもらったことがありました)。これは何を意味するのでしょう? 日本人は聖書などに見向くことなく、心に留めることもなくなってしまったのでしょうか。これは、まさに、命の言葉の飢饉です。預言者アモスの言葉がります。
私たちは今、その恐ろしい大飢饉に見舞われていることに全く気づいていないのです。これが恐ろしいのです。
あなたの若い日に
あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ。悪しき日がきたり、年が寄って、「わたしにはなんの楽しみもない」と言うようにならない前に(伝道の書、または「コヘレトの言葉」12:1)
So remember your Creator while you are still young, before those dismal days and years come when you will say, "I don't enjoy life."Ecc12:1
上記にあるように、高齢者になった方々から「何をやったら良いのか分からない」とか、「やることが何もない」などと言われるのを耳にすると悲しくなります。私は既に卒寿を超えましたが、若かったころよりも感謝、希望、心の平安を与えられます。それは若き日に、私の造り主なる全能者を知ることが許されたからです。この恵み、喜びを一人でも多くの方にも知っていただきたいのです。
Today we have many old age people among us. Sometimes I hear them speak "I don't know what to do today, or I don't know how to spend this day. As for me, I am much more hopeful, thankful, and peaceful in my heart than my younger days. I am ninty-one years old now.
ここにこそ希望がある! Here is the great comfort and helpful power!
神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。ローマ8:28 。
We know that in all things God works for good with those who love him, those whom he has called according to his purpose.Rom.8:28
全地の中で最もすばらしい所
その日にわたしは彼らに誓って、エジプトの地から彼らを導き出し、わたしが彼らのために探り求めた乳と蜜との流れる地、全地の中で最もすばらしい所へ行かせると言った。エゼ20:6 【口語訳】
エルサレムを中心としたイスラエルの地を、預言者エゼキエルは【全地(世界)】の中で最も素晴らしい所と言っています。しかし、私は思います。そこに主キリストがいてくださらなければ、決して素晴らしい所とはなりません。ゆえに、キリストがいてくださる所が、この世で一番素晴らしい所であると私は思います。2020年8月1日記。
エルサレム (嘆きの壁の前で) オリーブ山
トランプ大統領が「エルサレムをイスラエルの首都にする」と宣言したことによって、パレスチナ問題は世界で最も危険な地域となってしまいました。私は十年以上もイスラエルとパレスチナの歴史と地理をを学びました。それを纏めたのが「出版書案内2」に載せました「神の摂理より見た聖書の歴史・地理」(ページ143〜145参照)です。そこに記しました、「エルサレムの名称」についての記事は次の通りです。
エルサレムとは「エル」と「サレム」との合成語である。「エル」は隅石を置く(laying a corner stone)を意味し、「サレム」は平和(peace)の意である。したがって、エルサレムとは平和の基礎、または土台と呼ばれるものである。エジプトのアマルナ書簡では、エルサレムをベテサレムと呼んでいる。この意味は平和の家である。
そもそもだれがこの町にこの名称「エルサレム」を付したのであろう。「平和の基礎」、「平和の家」! 個人にとっても、家庭にとっても、はたまた国家にとっても、欲しいものは平和の家であり、平和の国家であり、完全なる平和の土台がしっかりと据えられることである。この世は大体に次の二者のいずれかに属する。すなわち、一方は富あり、すべての物に満ち足りているが平和がなく、他方は貧しくて物に欠乏し、惨めな日々を送りつつ、やはり平和を持たない。
エルサレムはあらゆる角度から見て、確かに「平和の家」と呼ばれるにふさわしい地である。しかし、そこに「平和の主人」が住んで下さらなければ、名実共に平和の家となることはできない。しかるにエルサレムは、神の預言者たちを迫害し、石で打ち殺して来たのである。今より約二千年前、この「平和の家」に真の主人公がお出でになられた。しかしエルサレムはこの事を知ろうともせず、認めようともしなかった。
ルカによる福音書一九章によると、キリストはその時、エルサレムへの最後の旅も終わろうとされていた。エリコを出発してどんどん坂道を上り、進むこと二十数キロメートル、エリコより標高差一千メートルほどの所まで登りつめるとオリーブ山頂である。このオリーブ山の頂上から約六百メートル前方に見下ろせるエルサレムの眺望は、真に素晴らしいパノラマである。キリストはこれを見て、声を上げて泣かれたのである。
そして彼が(エルサレムに)近づいた時、その都を見て、声をあげてその(エルサレムの)ために泣かれた。
「もしおまえも、この日(今日という日)に、平和への道を知っていたなら。しかし今はおまえの目からそれはかくされている(ルカ一九・四一、四二、福田私訳)。
ここで言う「平和への道」(口語訳聖書では「平和をもたらす道」と訳されている)とは、「平和の基礎」エルサレムの町に、今日というこの日に、その家の主人公であるキリストがお出でになったのだ、神ご自身が数千年の長きにわたって準備をし、用意された場所に、実に今、その主人公が来られたのである、という意味である。平和そのものの君が、エルサレムという平和の家の眼前に現われたのだ! そしてキリストは、エルサレムが今日という日にその事さえ分かってくれたら、と泣かれたのである。
エルサレムは自らを「平和の基礎」と呼んだ。名称だけは実に立派である。しかし事実は、エルサレムの平和の基礎となる「平和の主」を受け入れなかった。
ああ、エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、おまえにつかわされた人たちを石で打ち殺す者よ。ちょうど、めんどりが翼の下にそのひなを集めるように、わたしはおまえの子らを幾たび集めようとしたことであろう。それだのに、おまえたちは応じようとしなかった。見よ、おまえたちの家は見捨てられてしまう(マタイ二三・三七、三八)。
ああ、エルサレムはキリストのこの天来の尊い涙を、ついに認めることができなかったのである。