ルツ・ヨブ記

本文「はしがき」から抜粋

私は今日の日本人、特に女性にこの「ルツ記」を読んで欲しいと思います。そして、その本当の意味を知って、自分の人生に生かして欲しいと思います。神がなぜルツを祝福して下さったのかを知らずして、私たちもまた、本当の幸せを知ることはできません。今日私たちは自由をはき違えて、義務と犠牲を避けようとします。そして、自己本位となり権利だけを主張します。しかし、ここには祝福は伴いません。ルツ記を解することは、キリスト、特にキリストの十字架の犠牲の意味が何であるかを知る端緒となります。

旧約聖書39巻の中で、「ヨブ記」は異質な存在です。それは、ヨブがユダヤ人でなかったからだけではありません。その神観、宗教観が他とは異なっています。旧約聖書全体を貫く信仰、宗教観は特に申命記に明らかなように、「主が命じられる戒めをすべて守り行うなら、必ず祝福を受ける。しかし、それを守らないならば、のろわれる(申命記28章参照)」というものです。また、詩篇第1篇1節-3節にあるように、神の道を歩む者は、「そのなすところは皆栄える。」という信仰です。しかり、これはモーセの十戒を守るなら必ず祝福が伴う、ということです。これが旧約聖書の一貫した主張です。それに対してヨブ記は「否(ノ−)」と言うのです。ヨブは、「なぜ悪人が長寿を楽しみ、彼の子、孫たちは立派に育つのか。彼らの家は平安なのか。その事業は成功し繁栄するのか。そして、平安のうちに大往生できるのはいったいなぜなのか(ヨブ記21章本文と本書92頁以下の「二つの人生」参照)」と言うのです。ヨブ記の著者はこの大問題を掲げて、その解決を求めているのです。しかし、神はヨブに解答を与えてはくれませんでした。ヨブはただ、神を拝することを許されると、未解決の解決を見いだしてしまいます。ヨブ記が提起している問題は、やがて来られるキリストの時まで解答は与えられないのです。私たちがキリストの十字架の真意を教えられた時に、ヨブ記も、そして全聖書も解することが許されるのです。
【1985年5月29日  福田秀雄】
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